記録の思い出

記録を一番たくさん取っていたのは、女流育成会でプロを目指していたときだ。育成会の友人に三度も付き添ってもらい、やり方を覚えた。初めて一人で記録係を務めようという日の朝、はなっから対局者の真梨花ちゃんにお茶をひっかけ、もう一方の対局者である初美ちゃんを笑わせた。
思い出の一局と言えば、2010年将棋大賞の、名局賞特別賞を受賞した、児玉金井戦である。C級2組順位戦、夜中の12時に千日手指し直しになった。早朝4時に終わった対局の勝者は、昇級のかかった金井四段でなく、児玉七段であった。あまりにも眠くて将棋の内容が何も理解できず、逆に記録の仕事に集中できた覚えがある。

今度は、助けてもらって嬉しかった、という話である。先日アマ王将をとった、鈴木肇くん。彼が奨励会員だったころ、自分と同じ所司門下だった。
ある日、記録のために自転車で将棋会館へ向かっていると、あと数百メートルというところで、脳貧血を起こした。脳貧血はたまにあることで(女は大変なのです)、1時間ばかり横になっていれば回復するのはわかっているのだが、対局開始前の1時間は、対局準備のための時間で、のんびりあくびをしていていい時間ではない。無理に自転車をこごうとしたら気を失いそうになり、仕方なく道路脇に横になった。
寝転がったまま手合課へ「貧血です、記録には行けます」と電話をかけた。誰か声をかけてタクシーを拾ってくれないかと待っていたが、人はたくさん通るのに、誰一人、「大丈夫ですか」とも言ってくれない。
「スーツ姿の女が倒れていて、交番もすぐそこなのに、誰も知らせてもくれないのか」
と目を回しながら、通行人を呪った。
結局、対局室へ入ったのは対局開始10分前。おまけに将棋会館へ着いてわかったが、対局室は5階。いくら気分が良くなったとは言え、倉庫のある4階から5階まで、あの重い盤を運べるだろうか。何はともあれ、対局者へ詫びねば。フラフラと対局室のふすまを開けた。
びっくりした。対局準備が全部終わっているのである。盤駒も、脇息も、ゴミ箱、その他備品、何もかもそろっている。
先ほど道行く人々をさんざん恨んだ後ということもあり、涙が出そうだった。昼休みに手合課の人に聞くと「肇くんだよ」と教えてくれた。
さっそくお礼を言いに行くと、当の本人は急に私が現れたことに驚いた様子で、「え?なんでもないよ」と笑顔で返してくれた。
「あの盤、重くて、5階まで持っていくの大変で...」ブツブツと、どんなにありがたかったか伝えようとしたが、うまくいったとは思えない。

そう。本当にありがたかったのです。目頭が熱くなっていたのです。肇くん、あの時はありがとうございました。

女流初段 渡辺弥生